我孫子市と山下清のゆかり
先日、長男の孫娘を連れて手賀沼公園に遊びに行った際に、隣接する生涯学習センターアビスタで、市政施行50周年記念事業「清さん、お帰り/山下清 展」の広報紙を見かけ、我孫子が市政になって50年が経ったことと、山下清さんが我孫子に縁が深かったことをあらためて思い起こしました。
市のHPによると、昭和30年に我孫子町、布佐町、湖北村が合併して我孫子町になり、昭和45年に市制施行により我孫子市になったそうです。放浪の天才画家として広く世間に知られた山下清さんは、昭和17年から戦中戦後にかけての約6年間を我孫子駅構内でお弁当を販売していた「弥生軒」(現在は立ち食いそば屋)で働いていましたが、その時も突然に放浪の旅に出ることがあったそうです。
コロナ禍の中で「山下清展」を見に行くのは多少の躊躇いはありましたが、市の主催による記念時事業でもあり、また静かに作品を見るだけなのでリスクは少ないと判断し、最終日の20日(日曜日)に妻と二人で「山下清展」に出掛けました。
山下清といえば「裸の大将」をイメージしてしまいますが、実はちゃんと着物を着て日本全国を放浪の旅をしていたようです。幼い頃から観察力と記憶力が優れていて、養護学校時代にも突然に放浪の旅に出かけ、旅先では殆どスケッチすることなく、見聞した風景はありのままに記憶に留めて帰宅後に貼絵の手法を使って作品にしていたようです。
アメリカの雑誌「LIFE」に取り上げられて天才画家として騒がれ始めてからは自由な旅ができなくなり、昭和29年(当時32歳)の鹿児島の旅を最後に放浪生活を辞めたようです。
以降は周りに薦められてプロの画家になりますが、何時も世間から注目されたために後半は思うような創作活動ができない中で49歳の若さで他界することになります。
それぞれの作品には日記のようなコメントが付いていて当時の山下清の思いがリアルに伝わるため、一つ一つの作品に興味深く接することが出来ました。
最後に、約140点もの作品を一堂に展示できたのは、山下清とゆかりのあった我孫子市の記念事業ならではと感心した次第です。
補足ですが、広報「あびこ」の最後のページには日建ホームの広告が掲載されていました。
By Hira 以 上
写真は「広報あびこ」から掲載しました。